神の一手
先日ヒカルの碁を読み直しました。
初めにこの漫画のあらすじなどを紹介しますが、この記事は読み終えた後の私の感想ですので徐々にネタバレにシフトしていきます。
ネタバレの部分に入る前に注意書きを入れますので、まだ未読の方はその先は是非原作を読んでから読むことをおすすめします。ではでは。
もはや説明不要と言ってもいいでしょうこの漫画。いわゆる社会現象までも巻き起こしたジャンプ発の囲碁漫画です。
原作ほったゆみ、漫画はあのデスノートやバクマンの小畑健のコンビ作ですが、非常に面白い。
何がすごいって囲碁のこと何にもわかってなくても面白い。これは異常なことです。
僕自身、ヒカルの碁がジャンプ本誌で連載されていた頃は10歳頃、つまり小学3年生頃だったと記憶してるんですけど、当時囲碁のことなんて全くわからんかったのに友達と囲碁にハマったことがありました。
あれから十数年たった今、ふとしたきっかけからヒカルの碁を読み直す機会を得たのです。
ぶっちゃけこの歳になってから読み直すまで内容なんか全く覚えてなくて、アニメや漫画をなんとなーーーく見てて、幼心ながら面白かったなぁという感想をぼんやりと頭のなかに浮かべているだけの作品でした。
何度もいいますが改めて読むとかなり面白い。
小学生である主人公の進藤ヒカルくんは祖父の家の物置にしまわれていた碁盤に取り憑いていた「藤原佐為」という大昔の囲碁の達人の霊をたまたま蘇らせてしまい、その体に藤原佐為の霊体が取り憑いてしまいます。
ヒカルにしか声が聞こえず、姿を見ることができない霊体である藤原佐為との共同生活を余儀なくされたヒカルは、はじめは渋々佐為に付き合ってやる形で、石の持ち方やルールすら知らないまま藤原佐為の囲碁の代打ちをするのですが、藤原佐為は百戦錬磨の達人。
他の人はヒカルが佐為の代打ちをしているなんて知るはずもないのですから、その強さはヒカル自身のものだとして「強い小学生がいる」と囲碁界から注目されることになります。
やがてヒカルのもとにはヒカルの中にいる佐為に勝負を挑みたがるものが集まり始めます。
その姿は皆真剣そのもの。その姿に惹かれ、だんだんと囲碁に興味を抱くヒカルは、佐為の指示通りに打つ代打ちではなく、自らの思考を使った、自分の囲碁を打ちたいと強く思うようになっていきます。
ある一戦の途中、佐為の代打ち中にヒカルは佐為の指示した場所と違う場所に碁石をうちます。
「ここにうったらどうなるんだろう。」「自分ならここに打つ。」「そしたら相手はどう出る?」「答えはうたないとわからないんだ。」
そう、この一戦でヒカルは藤原佐為の代打ちから彼の囲碁へと足を踏み出すのです。
しかしその対局の相手は藤原佐為がヒカルに宿ってまもなく藤原佐為の代打ちをしていたヒカルに敗れた、ヒカルと同級生の男の子。
彼の名は「塔矢アキラ」。囲碁界屈指の天才児と名高く、父に現囲碁界最強の男である塔矢名人を持った若きスターでした。
彼は自分と同じ年代のライバルがおらず、彼自身ヒカルがあの平安伝説の達人である藤原佐為の代打ちをしているなんて知る由もないため、ヒカル自身の実力に負けたのだと悔しがっており、再戦をしていたのです。
彼が同年代の棋士に負けたのは初めてだったのでしょう。それも石の持ち方やルール知ら知らない奴に。
しかしその自分と同じ年の、棋士であるヒカルの中身は藤原佐為。それを知らぬ彼はヒカルの中の藤原佐為を真剣勝負を「進藤ヒカルVS塔矢アキラ」として当然戦っています。
佐為の打つ囲碁はまさしく達人そのもの。塔矢アキラがいくら強くても到底敵いません。
「ヒカルは強い。一体何者だ。」
それを確かめたくて再戦をしていた矢先、ヒカルの一手が達人のそれから初心者のそれへと急変します。
そう、ヒカルが佐為の代打ちを、指示ではなく自らの思考で囲碁をうったのです。
勝負の結果は塔矢アキラの勝ち。急に弱くなったヒカルに、塔矢アキラは「失望した」とヒカルに言い放ちます。
自分で打った囲碁。自分で考えた戦術。その全てが全く通用せず、今まで自分をライバルとして気にかけていた塔矢アキラからの失望の一言はヒカルをひどく悔しがらせます。
「そうだ。みんな俺の中の佐為を見ているんだ。ちくしょう。俺だってやってやる。今に見てろ。佐為だけでなく、俺の囲碁でお前を認めさせてやる。」
その決意を胸にヒカルは塔矢アキラの後を追うように囲碁界へと参入していくのです。
と、おおまかにあらすじを書きましたがだいたいこんなもんです。
ここから一気にネタバレ的感想に入りますのであらすじを詠んだで興味をもった方は是非一度原作を読んでみてください。伊達に社会現象になってませんマジで面白いですこのマンガ。
さて、この物語、タイトルは「ヒカルの碁」。しかし物語を読み始めるとそれはヒカルの碁ではなく藤原佐為の碁です。
少年ヒカルが藤原佐為との出会いを通し、ヒカルの碁を打つまでの成長物語がこの漫画のコンセプトであるわけです。
この物語の主人公は進藤ヒカルと藤原佐為(以下サイ)のコンビ。
サイは囲碁に興味を持ったヒカルに囲碁を教え、時にはヒカルを借りて塔矢アキラ達、現代の達人たちと戦います。
ではなぜ伝説の棋士、藤原佐為はヒカルに取り憑いたのか。なぜ現世に蘇ったのか。
物語の序盤では藤原佐為は囲碁への未練でこの世に漂い、死してなお囲碁を打つために蘇ったとされています。
しかし
サイが蘇ったのはヒカルに自らと塔矢名人との一局を見せるためだったのだ。
というシーンが存在します。
ヒカルには限りない囲碁の才能があり、それを目覚めさせるために囲碁の神様はサイをヒカルの元へよこしたのだと。
作中に囲碁の神様という登場人物は出てきませんし、なぜサイが現代に蘇ったのかは明確には記載されていません。
しかし事実ヒカルは囲碁をはじめて2年でプロになるほどの驚異的な才能をもっていました。
その才能を目覚めさせたのは間違いなくサイとの出会いであり、そのヒカルをそのステージまで連れて行ったのもまたサイなのです。
ヒカルとサイはいわゆる師弟関係にあたり、藤原佐為は現代でも最強とうたわれている平安時代の囲碁の達人。
その彼と24時間師弟として囲碁をしているのですからヒカルが強くなるのは当然です。
が、サイは「ヒカルの成長は遅いくらいです」と一言放っています。
そしてヒカルが成長していくに連れ、何故かサイは自分がもう長くこの世にはいられないという危機感を覚え始めます。
実際、ヒカルがある程度のところまで強くなり、自分の囲碁を打ち始めると幽霊で有る藤原佐為はフッとこの世から、いや、作中から姿を消してしまう。
少年漫画です。正直よくある展開です。これは後々ヒカルがサイがいなくてもそれを乗り越え、成長していき、最後にサイと再開し、対局し、打ち勝つのだろうと予想出来ました。(サイサイサイサイうるさい文章である)
が、違った
完全に作者にやられたと思いました。なんと物語中盤でサイが消えてから最終回までサイはヒカルの前には現れないんです。
ネットなどでは賛否両論挙げられています。サイを出すべきだった。サイが復活せずに終わった。打ち切りか?などなど。
僕は打ち切りなんてとんでもないと思っています。あれは間違いなく綺麗な結末であると。
もし作中の世界の囲碁の神様なんてものがいたなら、ヒカルという才能にあふれた少年のためにサイを復活させたのだ。そう思わせる描写が作中に度々あり、現代最強の棋士である塔矢名人と現世に蘇った最強の棋士、藤原佐為のネット囲碁での対局をヒカルが見たことにサイ復活の意義があったのでしょう。
サイ自身も「私はこの対極をヒカルに見せるためにこの世に復活したのかもしれない」と作中で言っているのです。
サイはこの対局をヒカルに見せた日、ヒカルに挨拶をする間もなくこの世から消えてしまします。
ここで読者からしたら後にサイが何故消えたかの説明が入るはずだと考えるはずです。伏線回収ってやつです。僕もそう思ってました
ですが最後の最後まで直喩的な説明はまっっっっったく入らないまま物語の幕は閉じます。
これほんと賛否両論挙げられてますほんと。
でもね、物語をしっかり追えていればその伏線はしっかり回収されているんです。
サイと名人のネット囲碁での対局はサイの勝ちに終わりました。が、しかし終了後、ヒカルはその最強棋士の二人ですら気が付かなかった、サイが負ける一手を見出すのです。
囲碁の手取り足取りをサイから学び、一度もサイとの対局では勝つことができなかったヒカルがその才気でサイに初めて勝利した瞬間でした。
それが直接の対局ではなくてもこの時ヒカルは師を、あの藤原佐為を超えたのです。
そしてその藤原佐為の囲碁はヒカルに受け継がれています。弟子であったヒカルのうつ囲碁には確かに藤原佐為の囲碁の形が存在していました。
その後ヒカルは「サイは俺の囲碁の中に確かにいるんだ」と、サイがいなくなったことを乗り越え、現代の藤原佐為として、何より進藤ヒカルとしての囲碁への道を、サイが目指した神の一手へと近づかんと囲碁にますますのめり込むことになるのです。
作中でヒカルは「もし囲碁の神様がいるなら、その人は寂しいだろう。」といった言葉を口にします。
最強の棋士である囲碁の神様はライバルがいない中ひとりぼっち。自分には塔矢アキラ達ライバルがいるのに。サイという師がいたのに。
その言葉に碁会所のおじさんがヒカルへと投げかけるのです。
「きっと囲碁の神様は自らのライバルを育てているのだよ。遠い過去から今までずっと。」
それを聞いた塔矢アキラは
「では昔生きていた碁打ちも今生きていた碁打ちもみな、そのために切磋琢磨を続けているということですか。」
と。
誰も彼もがみなに影響を与え、碁打ちは囲碁を打っている。過去から未来へとつながっているんだと。そのおじさんは言います。
碁会所のみんなにとってはユニークなジョークですが、サイの存在を知り、そしてまた消えてしまったことも知っている我々読者とヒカルにとってこの言葉の重さは計り知れない物があります。
囲碁の神様がどうこうでありません。藤原佐為という碁打ちが確かに存在し、今はもう消えてしまったが、その囲碁は確かに過去から現在へとつながっています。そしてそのつながりの先であったヒカルの碁もまた遠い未来へと碁打ちを通し、影響を与え、つながっていくのです。
そしてそのヒカルの碁は藤原佐為だけでなく、これまで関わってきた碁打ちのみんなとの対局が、それぞれの碁とつながり、影響を受けたからこそ出来上がった囲碁です。
作中でこのセリフが出てきた時、「ヒカルの碁」というタイトルの意味を理解したとともに、サイが最終回まで復活しなかったことの納得となりました。
サイの役目はきっとヒカルを神の一手への道を繋げること。
そして最終話でサイが復活して、ヒカルと対局して、勝って、という展開にならなかったのはあのネット対局後のヒカルの一手で、すでにヒカルがサイに勝っていたからだと思います。
サイが消えたあと、ヒカル一人の「ヒカルの碁」が描き続かれていたのは、それこそが「ヒカルの碁」であったから。サイが後ろにつきながら囲碁を勉強していた頃、それはまさに過去から現在へ繋がっている様子を描いた長い長いエピローグだったのだと思います。
サイが役目を終え、消えたあと、ヒカルの碁がようやく始まったのです。
タイトルはヒカルの碁なんですから、サイは出てこなくても自然です。
それでもサイとヒカルの碁はつながったのですから、ヒカルの中にサイは存在し続け、物語上ではヒカルの打つ囲碁の中に囲碁として登場し続けています。また物語上で描かれた最終戦ではヒカルはサイのために囲碁を打っているのです。
結局最終話ではヒカルは負けてしまい、悔しさを胸に成長する場面が描かれています。
ライバルである塔矢アキラとの決着もつかぬまま、物語は幕を閉じるんです。
でもそれでいいんです。これは「繋がる」物語。「繋がる」というテーマの中でのヒカルという少年の成長の物語です。
一見すると本当にヒカルの成長がテーマの物語なので、塔矢アキラとの決着、その他の先の物語が描かれず、打ち切りのような終わり方と誤解されてもしかたがないと思います。
ですがこの物語の真のテーマは先に上げたセリフがすべてを物語っているように思えます。
少年漫画を色々と読んできましたが、この様な綺麗な締め方をされた週刊連載モノの漫画を読むのは初めてでした。いや、スラムダンクがそれに近いかな・・・。
直喩的な終わり方は一切せず、物語の中盤にはその結末の伏線を貼り、また、その意味を確立させているのですが、読者からしたらそれになかなか気づきにくい。
つまりサイが消えてしまう話が少年誌的な事実上の最終回なんですが、その最終回が物語中盤ですでに済んでしまってるんです。
でもサイに教わり、自らが作り上げた、タイトルでもある「ヒカルの碁」が始まるのはその最終回が終わったあとで、後日談であるはずの話が本編として長く続く。
そしてその後日談の一部の結末が最終話として掲載されているので、不思議な感覚に陥るんでしょうね。でもその最終話は最終話であって物語のエンディングである最終回ではないんです。本当にすごい。
塔矢アキラとの決着も直接的な表現はされていませんが、ヒカルがサイに勝ち、サイが消えた日にその決着もついてしまっているように思えます。
その時点では直接対決で勝ってはいなくても、サイが消えるこの事実上の最終回はヒカルは後に成長して塔矢アキラを打ち倒すという風景が見えるように作られているんです。それも全ては物語序盤から最後まで一切現代の棋士達に負けなかったサイにヒカルが勝ったという描写が説得力をつけているからです。
サイが消えたところで最終回でよかった。という意見が多く見られるのはこのためかと。ヒカルが最強の棋士になることが見えたからあとの物語が惰性に感じてしまう人もいるのでしょうね。
僕個人としてはそこからヒカルの碁が始まるわけですし、サイがいなくなった後のヒカルの成長を見ることができるのがこの漫画の面白いところだと思っています。
最終回の後日談を10巻ほどかけて描く漫画なんて他にないでしょうから。
長々と色々書いてしまい、まとまりのない文章になりましたが、まとめると、
つまるところヒカルがサイに勝ち、ヒカルの碁とサイの碁がつながり、サイが役目を終え、消えてしまったところで、ヒカルの成長物語としてのエンディングを読者に見せるという技工が施されています。
読者はヒカルが将来成長し、最強の棋士になることはもうすでにあの話で見えてしまっているんです。
それでも何故か続きが書き続けられた。何故か。
それは1話で藤原佐為がこの世に霊として復活した理由が描かれてなかったから。
そして主人公進藤ヒカルがタイトルであるヒカルの碁を打ち始めるのがサイが消えた後だから。
ヒカルが最強の棋士になる結末は見えているため、引き伸ばしに感じる読者もいるでしょう。
でもヒカルの碁を打っているヒカルの姿が描かれた物語終盤で、しっかりとサイがこの世に再び現れた理由が直接的ではないにしろ語られているのです。
読者はヒカルと塔矢アキラの決着も、なんとなくヒカルが勝つと、作中最強であったサイにヒカルが勝った時点でもう感づいています。
というか、すべてサイが消えたことでそれらの物語は終了していたんです。
後の物語はヒカルがヒカルの碁を打って成長し、サイとのつながりとは何かということを描く場。
それを書き終えたからこの物語はあの場面で最終話であって、また、余すことなくすべての伏線やヒカルのその後のストーリーも完結させているのです。
いやはやほんとすごい。面白すぎて全23巻一日で読んでしまいました。こういう少年漫画はほんと生まれて初めて読みました。
しかし他の少年漫画と違うのはこの珍しい締め方だけではありません。
謎のリアルな生活感がこの世界に没頭させる何かを生み出してると思います。
その何かは定かではありませんが、ヒカルが中学校の友達と自然に会わなくなったり、喧嘩した友達と仲直りの描写がないまま学校を卒業したりと、妙にリアルな部分がたまにかいま見えます。
その割には伊角君のことを掘り下げたりと、要所要所で大事な部分は掘り下げているのですが、三谷との喧嘩など、掘り下げずにそのままヒカルの人生が流れていく部分もある。おそらく物語で触れられていない部分はヒカル自身もノータッチの部分なのでしょう。
そんな中、物語の核心部分であるヒカルの棋士として、そして人間としての成長部分はすべてサイが消えることで決着をつけているんだからたまげたもんです。
ほんとに名作でした。書籍は億場所に困るから電子版で全巻欲しいものです。
自分も競争できる場所に再び身をおきたいと思わせてくれる、なんというか、ヒカルという主人公の人生を見た。そんな感覚になれる漫画でした。
序盤の塔矢アキラが可愛すぎてショタに目覚めそうになる漫画でした。
読みづらい文章で失礼いたしました。最後まで読んでいただいた方ありがとうございました。
これを気に読んだことある人も読んだことない人も是非ヒカルの碁を手にとってくれればなぁと思います。
僕はショタに目覚めそうになる一歩手前で踏みとどまりました。セーフ。