サツキ、就職したってよ
職につきました。おかげさまで。
どうもお久しぶりですサツキです。
私、就職しまして現在故郷の兵庫を離れて千葉で生活しております。
おかげさまで時間はまったくないんですけど、なんか毎日仕事のことばっかりで生きていくのも嫌なんで、気分転換に毎日日記でもつけていこうかなーとか思ったり思わなかったり・・・
帰りの時間とか暇なんで、携帯で下書きして、家でMacで仕上げて毎日ブログ更新しようと思います。
前回の更新一年以上前かよ・・・前回も同じようなこと言って一日も続かなかったよ・・・
ほんと日常のくだらないこととかばっかりになっちゃいそうですけどアタシ頑張る!!!!
(前回(一年以上前でsゲフン)の引きのガンダム講座もその内します)
あけおめ
ことよろです(もう1月が終わりますが)
年末年始は大忙しでした・・・。年末は大晦日まで4日間徹夜して働いて、正月は各方面への挨拶回りなどなど・・・。
まぁ忙しかったのはいいんです。何もなくてぼーっとすぎるお正月よりかは幾分かましなもんです。
ただね
今年私宛に来た年賀状が0枚だったという事件が発生した模様
orz
いやほんと、これでも友好関係は広い方と自負していて、4年くらい前は結構な数の年賀状が来てたんですよ。いやほんとに(焦り気味)
それがちょうど今から3年前から、2年連続で我が家は喪中となりまして、その旨を書く方面に伝えることをすっかり忘れていて「まぁいっか」なんて思ってたらこの始末。
こ、このまま何十年も私には年賀状が一枚も来ないまま死を迎えるのか・・・・
そう考えて少しブルーになってました。幸先悪いです。
■豊富
さて、2016年も始まったことですしこういう記録に残るところで今年の抱負を宣言
今年こそは今年中に来年の抱負を考えるぞ
毎年言ってるなこいつとかやめて
豊富ではないけど今年はブログをもうちょっと頻繁に更新できればいいなとか思ってます(白い目)
■ガンダム
ガンダムって皆さん見たことあります?多分見たことない人にとっては「子供向けのロボットアニメで、メカオタクとかSFオタクの大人も好んで見るアニメ」みたいな印象だと思うんです。
ところがどっこい!!ガンダムって面白いんだよ!!!ってことを少し伝えようと思います。明日にでも。
ブログ更新を継続させるためにも明日へと続く!!(ちゃんと書くかは未定)
ロマンのある話
もうすぐ今年も終わり。年の瀬ですよね。今年も早かった。
そんな今日はロマンのある話をお届けいたします。えぇ年の瀬何も関係ないです。
ロマンのある話というか、「ちょっとした裏がありそうな話」がとても好きなんです私。
どんなのだよって言われたらあれです。初代ポケモン赤緑に存在したらしい「ゲンガーはなかやまこうよう」とか、Zガンダムのエゥーゴとティターンズの成り立ちの裏を取るとアナハイム社がつながっているとか。そういうやつです。
今の時代、ネットでちょっと調べると割といろんなことが出てくるんですけど、やっぱり気になったことを調べるのってすげぇ勉強になるんですよね。
だから私は、気になることは逐一ネットで調べるんですけど、どうしてもその中にはロマンというか、少し薄気味悪いけど、こういうことだったのかすげぇみたいな話も存在するんです。私の好みは都市伝説よりも信憑性があるけど、嘘かもしれない程度のレベルのやつなのです。(伝わりにくいかもしれませんが)
で、ですね。僕が中学生頃からずっと不思議に思っていたことがあるんですよね。その名も
なぞのばしょ
これはニンテンドーDSのソフト、ポケットモンスターダイヤモンド・パールに存在する「なぞのばしょ」ってマップのことなんですけど・・・。
多分ご存じの方も多いと思いますが、一応知らない方に向けて解説を書いておきます。
なぞのばしょとは・・・
・ポケットモンスターダイヤモンド・パール(以下DP)に存在するバグマップ。
・DPのシナリオラストに値する四天王戦のステージで海のマップでしか使うことのできない「なみのり」という技を使用したバグである。
・「なぞのばしょ」は四天王戦のマップの扉に向かって「なみのり」を使用し、扉を突き破ることで到達できるマップである(他にも2つ到達方法が確認されている)
・「なぞのばしょ」のマップ内のグラフィックは主人公以外は真っ黒であり、建物や障害物といったものが一切存在しない。
・特定歩数をなぞのばしょ内で進むことで本来到達することができないマップへと到達することができる。
まぁだいたいこんなもんです。要は特定条件を満たすことで侵入できる、主人公以外は真っ暗闇の世界がなぞのばしょなんですけど、これほんとDP発売当初馬鹿みたいに騒がれたんですよ。
その理由の一つとして、通常プレイでは入手できないポケモンを入手することができるってのがあってですね。
このDPっていうソフトはおそらく当時ポケモン史上最高数の伝説ポケモンが存在していたんです。
シナリオ自体に組み込まれているポケモンと、各地のマップの奥に潜んでいる伝説のポケモン、各地を飛び回るポケモンと、その数の多さに初見プレイ時、ワクワクしながらゲームをプレイしていました。
で、ですね。今でこそ当たり前のWi-Fi環境ですが、DPは発売当時ニンテンドーDS初対応のポケモンだったんですよね。つまり今みたいな配信限定ポケモン(映画を見に行ったりなどでWi-Fiで手に入れれるポケモン)が存在していなかったんです。
厳密に言えば赤緑のコロコロミュウ、金銀クリスタルのWHFセレビィや、RSのデオキシス、FRLGのルギアホウオウがありましたが、どれも公式情報内のポケモンでした。
ところがです。ネットでこの「なぞのばしょ」が発見されてから正規プレイじゃ姿を見せなかったポケモンがゲーム上に2種類ふっと姿を見せたんですよね。
それが「ダークライ」と「シェイミ」っていう二体のポケモンなんですけど、こいつらだけは数多かったDPの伝説のポケモンの中でも、どうしても正規プレイじゃ捕まえるどころか姿を拝むことすら出来なかったんです。(データ解析で存在自体は確認されていたため、映画配布が予測されていた)
それがです。なぞのばしょへ入り、規定歩数を進んだ後、「たんけんセット」というアイテムを使用することで、ダークライのいる「しんげつじま」とシェイミのいる「はなのらくえん」へと入ることができ、配信されるはずであったこれらのポケモンを入手することができたんです。
さらにしんげつじまやはなのらくえんを目的とせず歩き続けた場合、
・ソノオのはなばたけ
・なぞのばしょ
・テレビコトブキ
・なぞのばしょ
・探検セット?かなにか地下に関連するBGM
・もどりのどうくつ
の順番にこれらのマップ名が表示され、たどり着くことが検証されています。
おそらく、おそらくたまたまなんですよ。この順番って。でもね、DPのミオシティの図書館にこんなことが書かれた本が登場するんです。
「うみや かわで つかまえた ポケモンを たべたあとの ホネを きれいに きれいにして ていねいに みずのなかへ おくる
そうすると ポケモンは ふたたび にくたいを つけて このせかいに もどってくるのだ」
えっ・・・ポケモンって食えるの・・・?ってのはまた別の機会にして・・・
そしてDPには前述したとおり、通常プレイで各地の奥地へ進むと伝説のポケモンが眠っているマップが存在します。
その地域の一つに「もどりのどうくつ」って言うマップが存在するんですけど、この洞窟の入り口の手前に橋の掛かった池が存在するんですよね・・・。
更に洞窟は霧がかかっているし、プレイ当時
「うわー絶対ここ三途の川じゃんここ食べた後のポケモン水の中に送るところでしょこれ・・・こえーよ・・・」
って思ってたんですよね。このもどりのどうくつの奥地に潜むポケモンはこの世と別世界を行き来するポケモン「ギラティナ」だから余計そう思えて仕方ない・・・。
なぞのばしょを進んでいったその先にはソノオのはなばたけがあって、更に奥にすすむともどりのどうくつへとたどり着いて・・・
それより先に進むとバグが起きて主人公が行動できず、真っ暗闇のなぞのばしょに閉じ込められて出られなくなるんです・・・。
「は、はは・・・死後の世界に迷い込んでそのまま死んじゃったんじゃないのこれ・・・?」
当時プレイしていて本気でそう思ったのを今でも鮮明に覚えてます・・・(笑)
で、本題なんですけど「なぞのばしょ」はバグマップなのになぜ「なぞのばしょ」なんて名前が付いているんだと思います?
もうね、ほんとこれ不思議でたまらんのです。「なぞのばしょ」の発見からもうすぐ10年が経とうとしている現在は
・なぞのばしょはデバックゾーンだった。
・空き容量埋めとしての、初代赤緑の「けつばん」のような存在。
・システム上でのマップ移動を行うための座標指定マップ
などと解析が進んでおり、(少し専門的な話になるので、気になる方はググれば良いと思います)技術上のバグと解明されてきておりますが僕が言いたいのはそこではなくて。
デバックゾーンにしろ、座標指定エリアだったにしろなんで「なぞのばしょ」という名前をつけて、それが複数存在するのかという話です。
前述したようになぞのばしょへ入る場所は現在確認されているもので3箇所あり、たとえそれらが同じ「なぞのばしょ」へ通じているとしても、その「なぞのばしょ」を歩き続けることにより、はなばたけやテレビコトブキ、もどりのどうくつを経由し、また別のなぞのばしょへ到達しているのです。
もし「なぞのばしょ」がかつての「けつばん」のように意図して名付けられたデバックゾーンだったならその性質上「なぞのばしょ1」「なぞのばしょ2」のように各なぞのばしょ毎にナンバリングされていてないと効率的ではない気がするんです。
また、座標指定マップとしての役割を担っているのならそのマップ自体に「なぞのばしょ」というマップとしての名前をつける意味がわからないんです。
もし仮に座標指定システムを担っていたなら、それはポケモンというゲームを動かすためのシステムなのでそもそも通常プレイでは入ることを想定していないはずですから。
単純な予期せぬバグならなおさらです。バグだというのなら「なぞのばしょ」と呼ばれるマップに侵入した時点でそれは「なぞのばしょ」ではなく既存のマップ名などが表示されるわけじゃないですか。
なぜ「なぞのばしょ」という名前なのか・・・・。
ではバグじゃなく、意図して用意されたのかと言われると、そうとは考えにくいのです。
理由は明白。このバグで多数のDPプレイヤーが操作不可能な状態に陥り、データを破損させて大騒ぎになった時、任天堂が大慌てで「なぞのばしょ」の存在自体をなくす改良パッチを配布しているからです。
初代時代ならいざしらず、ここまでビッグタイトルとなったポケモンの最新作をデータ破損がある可能性があるものを残したまま意図的に販売するとは思えませんので・・・・。
もしくは「なぞのばしょ」というマップ自体は存在していて、映画配布等で解禁されるシナリオの予定だったが、配布前に「なぞのばしょ」自体に特殊な方法で入ってしまったために起きたバグで真っ暗な世界が出来上がってしまったか。
これに関しては、実際にDPには2015年現在になっても正規のプレイでは入手できない「メンバーズカード」「オーキドのてがみ」「てんかいのふえ」という3つのアイテムがデータ上には存在していて(おそらく映画等の特典配布アイテムを予定していたのであろう)、これらをデータ改ざんにより入手して使用し、検証してみたプレイヤーによって、
メンバーズカード→ダークライがいる「しんげつじま」へ行くイベント
オーキドのてがみ→シェイミのいる「はなのらくえん」へ行くイベント
てんかいのふえ→アルセウスのいる「はじまりのま」へ行くイベント
の発生条件アイテムということが判明しています。
つまりこれらのイベントの中に本来なら絡んできていたであろう場所が「なぞのばしょ」の正体という考察もなされているわけなのですが・・・。
これには一つの大きな穴があるんです。
それは「なぞのばしょ」から「たんけんセット」を使用して入る事ができ、入手できる正規プレイで入手不可能なポケモンがダークライとシェイミの2体だけだからということです。
前述のとおり、データ解析により、ダークライ、シェイミの存在が世に知れ渡っていたのと同じようにまた、アルセウスというポケモンのデータもDP内には存在することだけは明らかになっていました。
が、しかし、どう解析しても「なぞのばしょ」からはアルセウスのいる「はじまりのま」へと飛ぶことができなかったのです。ダークライとシェイミのいる「しんげつじま」と「はなのらくえん」へはいけるのに。
これはかなーーーーり専門的な話になるのですが、どうやらアルセウスのいる「はじまりのま」は本来正規プレイでプレイするマップとは別の高さの座標軸にマップ設定されているようなのです。
つまりどういうことかというと、「なぞのばしょ」とは、通常プレイで遊ぶためのマップの座標指定プログラムであり、通常プレイ用のマップの座標高度に設定されているということならしいです。
ダークライやシェイミのいる「しんげつじま」と「はなのらくえん」はたまたま、通常プレイ用のマップと同じ高さのマップとして座標登録されていたマップだったため、座標指定プログラムである「なぞのばしょ」へ進入し、「なぞのばしょ」内の特定の場所へ行き、「たんけんセット」を使用してセーブをし、マップ情報をメモリ等から再読み込みすることで、正規のアイテムを使用して、イベントを起こさなくてもワープが起きて目的地へたどり着けるというわけですね。
でも「はじまりのま」だけはその高さの座標軸が「なぞのばしょ」とは別の座標で設定されているから、どうあがいても別の高さの座標軸へはワープできなかったというわけなんだそうです。
なので、「はじまりのま」へは、「てんかいのふえ」を使用した時にプログラミングされている「高さの座標軸をはじまりのまの存在する座標軸までワープさせる」というプログラムが起動させる。という条件を満たさないと入ることができないわけです。
なのでこれらのことから「なぞのばしょ」は配布イベントのための空マップではなく単なる座標指定マップだったということがわかるわけなんですね。
ははーんなるほどねぇそれがなぞのばしょの正体ってわけか・・・
でもね
なぜゲームフリークはこのマップに「なぞのばしょ」というマップ名をつけたのか。
これは解決してないんですよ・・・。
結局、なぞのばしょからはなばたけ、もどりのどうくつへ、そして最後に動けなくなるなぞのばしょへたどり着くこのルートとギラティナというポケモンの存在はどうもこのルートが生命の死や死後の世界を意図的に暗示しているような気もするわけです。
きっと座標指定マップなんでしょう。でもね、それだと「なぞのばしょ」という名称が結局何だったのかの説明がつかないんです。
ゲームフリークスタッフの遊び心でかつての「けつばん」を新たにネーミングをしたのか・・・。
それとも死後の世界のような意図したネーミングだったのか・・・。
結局、「なぞのばしょ」がなんなのかは開発者以外は誰にもわからないんです。
なんか不気味なロマンを感じますよねぇ・・・(オチはない)
はろウィーーーーーーーーーーーーン
いやー10月31日。昨日は若者皆が楽しみにしているHalloweenでしたな。
お祭りっていうのはいいもので、やっぱり今を生きる人々を活気づけてくれます。今年なんかは過去最大級に若者を中心に盛り上がっていたのではないでしょうか。
まちなかで見る見る仮装の嵐。
お化けやゾンビにとどまらず、プリキュアやセーラームーンまで出張してもはやこれはコミケでは無いのだろうかと思うくらい。
中には
Halloweenはコミケじゃねーよ。本来の目的とかけ離れているのはどうなんだ。
なんて意見から、「楽しかった」という意見まで様々な記事がネット上に挙げられています。
僕自身はですね、そんなこと言ったらクリスマスだって本来イエスキリストの生誕の日なのにお前ら全然違うことしてるじゃんって。そういう意見にはツッコミを入れたくなります。
若者が露出多い格好ではしたない・・・とか、他にもハロウィンに対するネガティブな意見は探せばたくさん出てくるのです。
別にいいじゃん。日本でハロウィン始めても。だんだんこれも大衆化してきてクリスマスみたいに本来の意味とは全く別物の仮装大会の日みたいになるのは目に見えてるし。
こうやって働き詰めの日本のストレス社会に一つのお祭りが増えるのはいいガス抜きなんじゃないでしょうか??
今年のハロウィンは、参加できなかった奴がネガティブスピーチしてるとか、年配の方が叩いてるだけとか、いろいろ内見が飛び交っていますがそんなことはもうこの際どうでもいいんです。
別にいいじゃない。若者が楽しく暮らせる国なんて当たり前のように見えて早々無いですよ。これからの日本を作っていく若者が率先して行事に参加して盛り上げているんだから。
ただね
人様に迷惑かけてまで楽しむのはどうなんだ
聞けば渋谷も難波も今朝(11月1日の朝)は街中ゴミだらけだったとか。
悪臭だったらしいっすよ。街中公衆便所みたいな。
そして街中を仮装した姿で飲み歩き、そのゴミを撒き散らかした馬鹿な若者達の後始末を子供がしてるんですよね・・・。
僕は20代前半なんですけど、要は今回のハロウィン楽しんでた主年齢層なわけなんですよね僕らの年頃の奴らって。
成人したいい大人が街をゴミまみれにしてその後片付けは小学生とかがボランティアでやってるってほんとどういう了見なんだろうこれは。
ゴミまみれになった町で住んでいる人は誰かが片付けてくれるわけじゃないから自分たちで片付けるわけでしょ。
せめてそういう最低限のモラルは守らないとと思うわけです。大人なんだから当然です。
10代の子供達も当然ハロウィンに一緒に参加していたでしょう。そういう子たちがモラルもクソもない馬鹿に育たないように僕らの世代が最低限のモラルを守るのは当然なわけで。
でも思った以上に僕らの世代はモラルを守れない馬鹿が多かったようで・・・。
よくニュースで「最近日本国内で外国人旅行客のマナーが悪い」といったことが捉えられていますが、それどころじゃねぇ。
こんなもん僕ら日本人もマナー悪いから、そんなこと言える立場じゃないよってことをね、非常に声を大にして言いたい。
日本が島国だからこそ培え、今まで大事にしてきた丁寧さや誇り。世界的に見ても日本はマナーが良い国とか、良い人が多いとか言われてたんです。
今年のハロウィンで確信しました。このままでは僕らの世代が日本引っ張る時代にはその概念は崩壊してるんだろうなと・・・。
最低限のしちゃいけないこととか、マナーは小学生で習ったでしょ・・・
そんなことすら守れずに、楽しいことだけしてるならもうしないほうがマシなんですよねぇ・・・
来年も多分同じようなことになるんでしょうけど、今年の惨事を見て少しでもハロウィンを楽しんだ勢が反省して、被害がマシになればいいなぁと思ったのでした。
このままだとせっかくの楽しいハロウィンも定着する前にお国に禁止されてしまうよー??
僕としてはこのままの状態が何年も続くならむしろそんな当たり前の事もできないバカは問答無用で打ち首にするくらいの法律でもなんでも作って規制したらいいんだと思うばかりです・・・。
そのうちイースターとかも似たようなことになるんでしょうねぇ・・・
少なくとも自分の連れの中にはモラル守れないようなバカはいなかったと信じたい。そんな11月1日だったのでした・・・。
俺がガンダムだ
タイトルに「俺がガンダムだ」って打とうとしたらグーグル日本語入力の予測変換で「おれがが」まで打ったら「俺がガンダムだ」って打てて心底ビックリしてる。
どうも。タイトルはもろ00寄りですけど今日はSEEDについての感想を喋ります。00は少しだけ。
機動戦士ガンダムSEED。およびその続編の機動戦士ガンダムSEED DESTINY。
平成のファーストガンダムとして作られた作品なんですけどほんと賛否両論。
放送当時は昔からのガンダムファンであるオッサン世代とSEEDがきっかけで新規で入ってきたガンダムファンでの大きな抗争が勃発したことでも有名なある意味ガンダムシリーズの問題作です。
とは言えやっぱり僕みたいな20前後の若い層で、さらにガンダム見たことないけど興味あるって方が入りにするにはいい作品だと思います。まだの人は是非視聴してみてください。今ならHDリマスター版がありますので綺麗な画質で楽しめます。
今の綺麗な作画や展開の早いアニメに慣れている若い世代の方がファーストガンダムから見るのは少ししんどい気もするので・・・。僕は小さい頃からガンダムが好きで1stから順に見ているので違和感なく見れるんですけど、それでも古い作品を見直すと少ししんどい部分はありますからね・・・w
で、ガンダムっていう作品群はもう今から30年以上も前に作られた「機動戦士ガンダム」という作品から始まっている非常に息の長い作品です。その数なんと25種以上。
そんな数あるガンダムシリーズですがすべての作品が繋がっているわけではなく、いくつかの作品が続編モノで、基本的には各作品ごとの設定と時代背景が存在しています。
しかしテーマは一貫して「戦争」がテーマ。主人公である少年たちが戦争に関わり、それを経て成長していく様が描かれることが大きなテーマです。
自分、昨日SEEDとその続編にあたるDESTINYを見直しました約10年ぶりに(笑)
SEEDは2000年に入ってから作られた作品で、比較的新しいです。古くからガンダムを知るガンダムファンはSEED系列の作品をよく叩きますが、SEEDとDESTINYのTV放映組に関してはなかなかいい出来なのではないでしょうかと今になって見なおして感じました。
特にSEEDはプラモデルなどの関連商品がバカ売れしたのも頷ける出来だと思います。ピンクが歌ったりしますが。
戦争の中で葛藤しながら生き抜き、成長するキラとアスランをよく描写できていて面白いなーと思いながら見てました。
特にSEEDはキャラにのめり込みやすい。だからこそ女性受けがよく、今でも女性に人気です。美少年ばかりが出てくるからとかそういう意味じゃなくて(そういう意味もあるけど)
まぁそののめり込みやすさが仇となってマイナスに出てしまっている部分もいくつかあるように思います。ラクスがフリーダムをキラに渡した時の思考や、DESTINYでの「カガリは今泣いているんだ」というキラの発言は少し冷静に見ている視聴者からしたらまさにサイコな思考回路過ぎてわけがわかりません。
でも人気なんです。そりゃなぜなのか。
SEEDの世界の人物は「なんとなく共感できる言葉」がセリフに多いんですよね。
先程述べた「カガリは今泣いているんだ」もそうですけど、こう、なんとなく言いたいことはわかるんだけど、短絡的すぎて視聴者にそのセリフに込められたほんとうの意味が伝わりにくいんですよ。
クルーゼが最後にキラと行った言い争い上での演説のように、すごくわかりやすく、核心をついているセリフもあるんですけど、それ以上にキャラクターの異常な行動が多いんですよね。所見で一人で見てるとあれは確かにわけわからんくなるかもしれないです。僕は連れと二人で二回目を見たのでそういう部分も笑い飛ばしながら見れてましたけど。
だからキャラクター同士の絡みを楽しみに見ている人からしたら非常に人気がでる。そういう物語的な部分よりキャラクターを見ることを楽しんでますからね。何度も言いますがキャラクターは魅力的ですからね。フリーダムとキラなんか超かっこいいし。
逆に言うと昔からガンダム見てるような物語とかその流れに趣を置くファンはそのキャラクターの奇機械会な行動にわけわかんなくなって匙を投げるんですよねあれ。
例えばキラで例をあげましょうか。「カガリは今泣いているんだ」のセリフ。あのセリフに基づいてカガリを式場からさらった結果、オーブは再び焼かれることとなります。まぁあのままユウナと結婚していたらそれはそれでオーブにとって大問題だったかもしれませんが・・・。
キラはその他にもラクスがデュランダルの差金で狙われたという保証がないまま、デュランダルを疑ってかかったり(これについてはアスランにも作中で言及されてます)と。なんのためのクライン派なのか。そういうところで物事をはっきりさせるためにクライン派を使えばいいのではと思ったりするわけです。ただこれも結果的に後日クライン派の行動により議長のノートを手に入れ、疑いが確信に変わるのでまぁセーフか・・・・?
極めつけのDESTINY最後の「それでも戦う覚悟ができている」という議長への言葉は「戦わない世界」を目指してきたキラと矛盾している最大のやっちまったシーンなんじゃないかと個人的には思っていたり・・・。
あれなんかDESTINYばっかだな・・・
いやまぁそれでもそういう些細なキャラ崩壊やよーーーーーく考えないと真意がわからないキャラクターの行動の部分を無視して見ると面白い作品です。さっきも言いましたけどキャラクターアニメとしては超面白いかと。ただ、キャラアニメを好まない、戦争の物語を視聴したい歴の長いファンからの受けが悪いという現実もあるわけで。
僕はどちらかと言うとガンダムといえばキャラ物ではなく、もっと戦争や、それが引き起こす人間ドラマを描いて欲しいタイプなのですが、SEEDもDESTINYも好きです。冷静に見るとSEEDはほんとうによく出来てます。ピンクがあの状況でフリーダムをキラに渡したのは冷静に見れば見るほどご都合主義でしかなく、物語上では奇行ですけど・・・(笑)
それを抜きにしてもそういう戦争の血生臭さやそれにつきまとうヒューマンドラマ、そして戦争を起こす人間の心理がよく描写されててやっぱり面白いんです。
その続編のDESTINYもすこしキャラクターに奇怪な行動が見えるから超名作とはいえないかもしれませんが・・・キャラ物としてみているとSEEDで思い入れが入っているしDESTINYも好きです。フリーダム再登場したり、ストフリ出てくるところは最高に興奮しますし。
見なおした感想としてはキャラ物色が強く、現代風。だからこそ古参ファンのウケが悪いけど、いい意味でガンダムという作品テーマをなぞっているので高評価も悪評もつく作品だなと。
僕自身は大好きです。フリーダム無双過ぎてつまらないという声もありますがそのフリーダムがかっこいいし、現代風なキャラアニメしてて、その無双、見てて気持ちいいと思いますほんと。
で、00ですよ。もう放送から7年ほど経ちましたがキャラ物としてもシナリオとしてもかなりうまく出来上がっていると思います。
1期は政治色が強いから古参受けがいいでしょうね。政治色が強いということは情報量が多い。
実際その1期を丸々キャラクター達や舞台背景の導入に使用しているからキャラ物として見るならそれらの導入された設定が生かされてくる2期でしょうか。
とにかく00は1期で伏線を貼りまくる。物語上で流れてるニュース一つでも聞き逃がせば物語がわからなくなるくらい情報量も多いからシナリオ性がある。
それでいて主要キャラクター全員が謎めいていて、視聴者は魅力を感じるんです。そのキャラクターを紹介するために1期全25話を丸々使用しているので、SEEDみたいなキャラ重視のアニメを期待してみると1期は少ししんどいかなぁと。とにかく伏線の嵐でわからないことだらけなのでキャラに移入しづらいんですよね。
逆にストーリーものとして見ているとその伏線がどう繋がるのかが気になって仕方がないので1期はすごく面白く感じるんです。
そして貼りまくった伏線が物語が進むに連れてどんどんつながり、2期で本格的に回収にかかる。1期でキャラクターの設定を把握し、あの最終回での引きを食らった視聴者は2期でその設定や引きで見せられた物の真実を確かめることができるのでキャラクターものとしてみても楽しめるし純粋なストーリーものとしても見ることができるんです。
ただ、2期はどうもガノタ的にはZの焼きまし的部分が多々見られるから1期を支持する方が多いみたいですが。
自分的には1期2期ともに非常に面白いです。SEEDと同じくらいには面白い。
ただ良くも悪くも、あの内容なのでガンダムでなくてもよいというのがありますがそれはまた次回の記事にでも。
チラ裏でほんとすみません。
ただの古参、新規両ガンダムオタクの中立にいると思い上がっている僕の殴り書きです。
いろいろ言われていようが、見ている側が面白いと感じれたらそれが一番なんです。
僕はいろんな矛盾とか、設定とかにこだわる部分もあるのですが純粋に楽しんでみるのを第一にしてます。今のガンダムも昔のガンダムも両方好きだし。
ただ00はガンダムじゃなくてもよい。どっちかといえばマクロスに近い。これはずっと思ってます。
00大好きなんですけどね。次回はそれについて。
ノシ
それって運命
プラモデーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーール
MGデスティニーを作ろうかなぁと思ったんですがまず家にニッパーがない(模型自体4年ぶり)
そしてカッターマットも捨てて挙句の果てにはコンプレッサーは動かない・・・。
デスティニー、レジェンド、ストフリ、∞ジャスを作って並べるのが夢なのに・・・。
そうです。僕、ガノタなんですけどガンダムの世界に入り込んだのはガンダム史の中でも酷評されているDESTINYからです。
当時小学校高学年だった僕ですがそれはもうハマってハマって。よくプラモデル小遣いで買ってました。
その思い出補正が強くて未だにDESTINYに出てくるラストの4機は大好きなんですよね・・・。SEEDのストライク達Xシリーズ5機も好きですけど・・・。
まずはニッパーから買わなければなぬと家を出ようとしたら雨・・・。
我が家のMGデスティニーは完成しない運命なのか。
大人しくシャーロットでも見直しますほんと友利奈緒ちゃんが可愛くて可愛くて死にそうです。
っていう殴り書き。来週から就活頑張るぞう🐘
神の一手
先日ヒカルの碁を読み直しました。
初めにこの漫画のあらすじなどを紹介しますが、この記事は読み終えた後の私の感想ですので徐々にネタバレにシフトしていきます。
ネタバレの部分に入る前に注意書きを入れますので、まだ未読の方はその先は是非原作を読んでから読むことをおすすめします。ではでは。
もはや説明不要と言ってもいいでしょうこの漫画。いわゆる社会現象までも巻き起こしたジャンプ発の囲碁漫画です。
原作ほったゆみ、漫画はあのデスノートやバクマンの小畑健のコンビ作ですが、非常に面白い。
何がすごいって囲碁のこと何にもわかってなくても面白い。これは異常なことです。
僕自身、ヒカルの碁がジャンプ本誌で連載されていた頃は10歳頃、つまり小学3年生頃だったと記憶してるんですけど、当時囲碁のことなんて全くわからんかったのに友達と囲碁にハマったことがありました。
あれから十数年たった今、ふとしたきっかけからヒカルの碁を読み直す機会を得たのです。
ぶっちゃけこの歳になってから読み直すまで内容なんか全く覚えてなくて、アニメや漫画をなんとなーーーく見てて、幼心ながら面白かったなぁという感想をぼんやりと頭のなかに浮かべているだけの作品でした。
何度もいいますが改めて読むとかなり面白い。
小学生である主人公の進藤ヒカルくんは祖父の家の物置にしまわれていた碁盤に取り憑いていた「藤原佐為」という大昔の囲碁の達人の霊をたまたま蘇らせてしまい、その体に藤原佐為の霊体が取り憑いてしまいます。
ヒカルにしか声が聞こえず、姿を見ることができない霊体である藤原佐為との共同生活を余儀なくされたヒカルは、はじめは渋々佐為に付き合ってやる形で、石の持ち方やルールすら知らないまま藤原佐為の囲碁の代打ちをするのですが、藤原佐為は百戦錬磨の達人。
他の人はヒカルが佐為の代打ちをしているなんて知るはずもないのですから、その強さはヒカル自身のものだとして「強い小学生がいる」と囲碁界から注目されることになります。
やがてヒカルのもとにはヒカルの中にいる佐為に勝負を挑みたがるものが集まり始めます。
その姿は皆真剣そのもの。その姿に惹かれ、だんだんと囲碁に興味を抱くヒカルは、佐為の指示通りに打つ代打ちではなく、自らの思考を使った、自分の囲碁を打ちたいと強く思うようになっていきます。
ある一戦の途中、佐為の代打ち中にヒカルは佐為の指示した場所と違う場所に碁石をうちます。
「ここにうったらどうなるんだろう。」「自分ならここに打つ。」「そしたら相手はどう出る?」「答えはうたないとわからないんだ。」
そう、この一戦でヒカルは藤原佐為の代打ちから彼の囲碁へと足を踏み出すのです。
しかしその対局の相手は藤原佐為がヒカルに宿ってまもなく藤原佐為の代打ちをしていたヒカルに敗れた、ヒカルと同級生の男の子。
彼の名は「塔矢アキラ」。囲碁界屈指の天才児と名高く、父に現囲碁界最強の男である塔矢名人を持った若きスターでした。
彼は自分と同じ年代のライバルがおらず、彼自身ヒカルがあの平安伝説の達人である藤原佐為の代打ちをしているなんて知る由もないため、ヒカル自身の実力に負けたのだと悔しがっており、再戦をしていたのです。
彼が同年代の棋士に負けたのは初めてだったのでしょう。それも石の持ち方やルール知ら知らない奴に。
しかしその自分と同じ年の、棋士であるヒカルの中身は藤原佐為。それを知らぬ彼はヒカルの中の藤原佐為を真剣勝負を「進藤ヒカルVS塔矢アキラ」として当然戦っています。
佐為の打つ囲碁はまさしく達人そのもの。塔矢アキラがいくら強くても到底敵いません。
「ヒカルは強い。一体何者だ。」
それを確かめたくて再戦をしていた矢先、ヒカルの一手が達人のそれから初心者のそれへと急変します。
そう、ヒカルが佐為の代打ちを、指示ではなく自らの思考で囲碁をうったのです。
勝負の結果は塔矢アキラの勝ち。急に弱くなったヒカルに、塔矢アキラは「失望した」とヒカルに言い放ちます。
自分で打った囲碁。自分で考えた戦術。その全てが全く通用せず、今まで自分をライバルとして気にかけていた塔矢アキラからの失望の一言はヒカルをひどく悔しがらせます。
「そうだ。みんな俺の中の佐為を見ているんだ。ちくしょう。俺だってやってやる。今に見てろ。佐為だけでなく、俺の囲碁でお前を認めさせてやる。」
その決意を胸にヒカルは塔矢アキラの後を追うように囲碁界へと参入していくのです。
と、おおまかにあらすじを書きましたがだいたいこんなもんです。
ここから一気にネタバレ的感想に入りますのであらすじを詠んだで興味をもった方は是非一度原作を読んでみてください。伊達に社会現象になってませんマジで面白いですこのマンガ。
さて、この物語、タイトルは「ヒカルの碁」。しかし物語を読み始めるとそれはヒカルの碁ではなく藤原佐為の碁です。
少年ヒカルが藤原佐為との出会いを通し、ヒカルの碁を打つまでの成長物語がこの漫画のコンセプトであるわけです。
この物語の主人公は進藤ヒカルと藤原佐為(以下サイ)のコンビ。
サイは囲碁に興味を持ったヒカルに囲碁を教え、時にはヒカルを借りて塔矢アキラ達、現代の達人たちと戦います。
ではなぜ伝説の棋士、藤原佐為はヒカルに取り憑いたのか。なぜ現世に蘇ったのか。
物語の序盤では藤原佐為は囲碁への未練でこの世に漂い、死してなお囲碁を打つために蘇ったとされています。
しかし
サイが蘇ったのはヒカルに自らと塔矢名人との一局を見せるためだったのだ。
というシーンが存在します。
ヒカルには限りない囲碁の才能があり、それを目覚めさせるために囲碁の神様はサイをヒカルの元へよこしたのだと。
作中に囲碁の神様という登場人物は出てきませんし、なぜサイが現代に蘇ったのかは明確には記載されていません。
しかし事実ヒカルは囲碁をはじめて2年でプロになるほどの驚異的な才能をもっていました。
その才能を目覚めさせたのは間違いなくサイとの出会いであり、そのヒカルをそのステージまで連れて行ったのもまたサイなのです。
ヒカルとサイはいわゆる師弟関係にあたり、藤原佐為は現代でも最強とうたわれている平安時代の囲碁の達人。
その彼と24時間師弟として囲碁をしているのですからヒカルが強くなるのは当然です。
が、サイは「ヒカルの成長は遅いくらいです」と一言放っています。
そしてヒカルが成長していくに連れ、何故かサイは自分がもう長くこの世にはいられないという危機感を覚え始めます。
実際、ヒカルがある程度のところまで強くなり、自分の囲碁を打ち始めると幽霊で有る藤原佐為はフッとこの世から、いや、作中から姿を消してしまう。
少年漫画です。正直よくある展開です。これは後々ヒカルがサイがいなくてもそれを乗り越え、成長していき、最後にサイと再開し、対局し、打ち勝つのだろうと予想出来ました。(サイサイサイサイうるさい文章である)
が、違った
完全に作者にやられたと思いました。なんと物語中盤でサイが消えてから最終回までサイはヒカルの前には現れないんです。
ネットなどでは賛否両論挙げられています。サイを出すべきだった。サイが復活せずに終わった。打ち切りか?などなど。
僕は打ち切りなんてとんでもないと思っています。あれは間違いなく綺麗な結末であると。
もし作中の世界の囲碁の神様なんてものがいたなら、ヒカルという才能にあふれた少年のためにサイを復活させたのだ。そう思わせる描写が作中に度々あり、現代最強の棋士である塔矢名人と現世に蘇った最強の棋士、藤原佐為のネット囲碁での対局をヒカルが見たことにサイ復活の意義があったのでしょう。
サイ自身も「私はこの対極をヒカルに見せるためにこの世に復活したのかもしれない」と作中で言っているのです。
サイはこの対局をヒカルに見せた日、ヒカルに挨拶をする間もなくこの世から消えてしまします。
ここで読者からしたら後にサイが何故消えたかの説明が入るはずだと考えるはずです。伏線回収ってやつです。僕もそう思ってました
ですが最後の最後まで直喩的な説明はまっっっっったく入らないまま物語の幕は閉じます。
これほんと賛否両論挙げられてますほんと。
でもね、物語をしっかり追えていればその伏線はしっかり回収されているんです。
サイと名人のネット囲碁での対局はサイの勝ちに終わりました。が、しかし終了後、ヒカルはその最強棋士の二人ですら気が付かなかった、サイが負ける一手を見出すのです。
囲碁の手取り足取りをサイから学び、一度もサイとの対局では勝つことができなかったヒカルがその才気でサイに初めて勝利した瞬間でした。
それが直接の対局ではなくてもこの時ヒカルは師を、あの藤原佐為を超えたのです。
そしてその藤原佐為の囲碁はヒカルに受け継がれています。弟子であったヒカルのうつ囲碁には確かに藤原佐為の囲碁の形が存在していました。
その後ヒカルは「サイは俺の囲碁の中に確かにいるんだ」と、サイがいなくなったことを乗り越え、現代の藤原佐為として、何より進藤ヒカルとしての囲碁への道を、サイが目指した神の一手へと近づかんと囲碁にますますのめり込むことになるのです。
作中でヒカルは「もし囲碁の神様がいるなら、その人は寂しいだろう。」といった言葉を口にします。
最強の棋士である囲碁の神様はライバルがいない中ひとりぼっち。自分には塔矢アキラ達ライバルがいるのに。サイという師がいたのに。
その言葉に碁会所のおじさんがヒカルへと投げかけるのです。
「きっと囲碁の神様は自らのライバルを育てているのだよ。遠い過去から今までずっと。」
それを聞いた塔矢アキラは
「では昔生きていた碁打ちも今生きていた碁打ちもみな、そのために切磋琢磨を続けているということですか。」
と。
誰も彼もがみなに影響を与え、碁打ちは囲碁を打っている。過去から未来へとつながっているんだと。そのおじさんは言います。
碁会所のみんなにとってはユニークなジョークですが、サイの存在を知り、そしてまた消えてしまったことも知っている我々読者とヒカルにとってこの言葉の重さは計り知れない物があります。
囲碁の神様がどうこうでありません。藤原佐為という碁打ちが確かに存在し、今はもう消えてしまったが、その囲碁は確かに過去から現在へとつながっています。そしてそのつながりの先であったヒカルの碁もまた遠い未来へと碁打ちを通し、影響を与え、つながっていくのです。
そしてそのヒカルの碁は藤原佐為だけでなく、これまで関わってきた碁打ちのみんなとの対局が、それぞれの碁とつながり、影響を受けたからこそ出来上がった囲碁です。
作中でこのセリフが出てきた時、「ヒカルの碁」というタイトルの意味を理解したとともに、サイが最終回まで復活しなかったことの納得となりました。
サイの役目はきっとヒカルを神の一手への道を繋げること。
そして最終話でサイが復活して、ヒカルと対局して、勝って、という展開にならなかったのはあのネット対局後のヒカルの一手で、すでにヒカルがサイに勝っていたからだと思います。
サイが消えたあと、ヒカル一人の「ヒカルの碁」が描き続かれていたのは、それこそが「ヒカルの碁」であったから。サイが後ろにつきながら囲碁を勉強していた頃、それはまさに過去から現在へ繋がっている様子を描いた長い長いエピローグだったのだと思います。
サイが役目を終え、消えたあと、ヒカルの碁がようやく始まったのです。
タイトルはヒカルの碁なんですから、サイは出てこなくても自然です。
それでもサイとヒカルの碁はつながったのですから、ヒカルの中にサイは存在し続け、物語上ではヒカルの打つ囲碁の中に囲碁として登場し続けています。また物語上で描かれた最終戦ではヒカルはサイのために囲碁を打っているのです。
結局最終話ではヒカルは負けてしまい、悔しさを胸に成長する場面が描かれています。
ライバルである塔矢アキラとの決着もつかぬまま、物語は幕を閉じるんです。
でもそれでいいんです。これは「繋がる」物語。「繋がる」というテーマの中でのヒカルという少年の成長の物語です。
一見すると本当にヒカルの成長がテーマの物語なので、塔矢アキラとの決着、その他の先の物語が描かれず、打ち切りのような終わり方と誤解されてもしかたがないと思います。
ですがこの物語の真のテーマは先に上げたセリフがすべてを物語っているように思えます。
少年漫画を色々と読んできましたが、この様な綺麗な締め方をされた週刊連載モノの漫画を読むのは初めてでした。いや、スラムダンクがそれに近いかな・・・。
直喩的な終わり方は一切せず、物語の中盤にはその結末の伏線を貼り、また、その意味を確立させているのですが、読者からしたらそれになかなか気づきにくい。
つまりサイが消えてしまう話が少年誌的な事実上の最終回なんですが、その最終回が物語中盤ですでに済んでしまってるんです。
でもサイに教わり、自らが作り上げた、タイトルでもある「ヒカルの碁」が始まるのはその最終回が終わったあとで、後日談であるはずの話が本編として長く続く。
そしてその後日談の一部の結末が最終話として掲載されているので、不思議な感覚に陥るんでしょうね。でもその最終話は最終話であって物語のエンディングである最終回ではないんです。本当にすごい。
塔矢アキラとの決着も直接的な表現はされていませんが、ヒカルがサイに勝ち、サイが消えた日にその決着もついてしまっているように思えます。
その時点では直接対決で勝ってはいなくても、サイが消えるこの事実上の最終回はヒカルは後に成長して塔矢アキラを打ち倒すという風景が見えるように作られているんです。それも全ては物語序盤から最後まで一切現代の棋士達に負けなかったサイにヒカルが勝ったという描写が説得力をつけているからです。
サイが消えたところで最終回でよかった。という意見が多く見られるのはこのためかと。ヒカルが最強の棋士になることが見えたからあとの物語が惰性に感じてしまう人もいるのでしょうね。
僕個人としてはそこからヒカルの碁が始まるわけですし、サイがいなくなった後のヒカルの成長を見ることができるのがこの漫画の面白いところだと思っています。
最終回の後日談を10巻ほどかけて描く漫画なんて他にないでしょうから。
長々と色々書いてしまい、まとまりのない文章になりましたが、まとめると、
つまるところヒカルがサイに勝ち、ヒカルの碁とサイの碁がつながり、サイが役目を終え、消えてしまったところで、ヒカルの成長物語としてのエンディングを読者に見せるという技工が施されています。
読者はヒカルが将来成長し、最強の棋士になることはもうすでにあの話で見えてしまっているんです。
それでも何故か続きが書き続けられた。何故か。
それは1話で藤原佐為がこの世に霊として復活した理由が描かれてなかったから。
そして主人公進藤ヒカルがタイトルであるヒカルの碁を打ち始めるのがサイが消えた後だから。
ヒカルが最強の棋士になる結末は見えているため、引き伸ばしに感じる読者もいるでしょう。
でもヒカルの碁を打っているヒカルの姿が描かれた物語終盤で、しっかりとサイがこの世に再び現れた理由が直接的ではないにしろ語られているのです。
読者はヒカルと塔矢アキラの決着も、なんとなくヒカルが勝つと、作中最強であったサイにヒカルが勝った時点でもう感づいています。
というか、すべてサイが消えたことでそれらの物語は終了していたんです。
後の物語はヒカルがヒカルの碁を打って成長し、サイとのつながりとは何かということを描く場。
それを書き終えたからこの物語はあの場面で最終話であって、また、余すことなくすべての伏線やヒカルのその後のストーリーも完結させているのです。
いやはやほんとすごい。面白すぎて全23巻一日で読んでしまいました。こういう少年漫画はほんと生まれて初めて読みました。
しかし他の少年漫画と違うのはこの珍しい締め方だけではありません。
謎のリアルな生活感がこの世界に没頭させる何かを生み出してると思います。
その何かは定かではありませんが、ヒカルが中学校の友達と自然に会わなくなったり、喧嘩した友達と仲直りの描写がないまま学校を卒業したりと、妙にリアルな部分がたまにかいま見えます。
その割には伊角君のことを掘り下げたりと、要所要所で大事な部分は掘り下げているのですが、三谷との喧嘩など、掘り下げずにそのままヒカルの人生が流れていく部分もある。おそらく物語で触れられていない部分はヒカル自身もノータッチの部分なのでしょう。
そんな中、物語の核心部分であるヒカルの棋士として、そして人間としての成長部分はすべてサイが消えることで決着をつけているんだからたまげたもんです。
ほんとに名作でした。書籍は億場所に困るから電子版で全巻欲しいものです。
自分も競争できる場所に再び身をおきたいと思わせてくれる、なんというか、ヒカルという主人公の人生を見た。そんな感覚になれる漫画でした。
序盤の塔矢アキラが可愛すぎてショタに目覚めそうになる漫画でした。
読みづらい文章で失礼いたしました。最後まで読んでいただいた方ありがとうございました。
これを気に読んだことある人も読んだことない人も是非ヒカルの碁を手にとってくれればなぁと思います。
僕はショタに目覚めそうになる一歩手前で踏みとどまりました。セーフ。